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歴史について

物は衣・食・住の中の極めて重要な生活物資であり、古くからその生産が行われていますが、当初は麻や絹が大部分であり木綿が我が国で生産されるようになったのは、永正年間(西暦1504年)からのようであります。同年代に三河地方でこれを作り、奈良の市場に出したといわれます。その後、天文年間(1532年)には薩摩の職工がさつま木綿を作りました。この頃から各地で棉の栽培が盛んとなり、木綿が生産されるようになったと伝えられています。


家の婦女子が自家用に供するため、当時の綿織物は、自作の綿花から操綿・紡糸・機織をしたようですが、生産量の増加に伴い農家を回る飛脚が取次ぎをするようになり、次第に商品化していきました。飛脚の取次ぎは次第に専業化して買継が発生し、買継が強力になるにしたがって織元に発展し、農家の婦女子に糸や織機を与えて賃織をさせるようになりました。当時の織機は居座式といい極めて原始的な手機織機でしたが、その後高機が使用されるようになり、徳川末期から明治初年にかけて次第に数台から数十台の織機を一個所に持ち寄り、工場形態を取るものが多くなってきました。


代的な工業として綿織物業が勃興したのは、明治23年の豊田佐吉の人力織機、同30年木製動力織機の発明に起因するということができます。これより先、綿糸紡績については、慶応3年に薩摩の島津斉彬が鹿児島紡績所を興して以来、各地に洋式の紡績工場が開設され、良質の綿糸が供給されるようになりましたが、豊田佐吉の動力織機の発明により、我が国綿織物業の発展の基盤が確立されました。即ち、明治初年においては綿織物は多く輸入に頼っていたのですが、明治 27~28年頃より生産は急ピッチで上昇し、輸出も次第に増加しました。その結果、綿織物の輸入は明治41年を最高に急速に減少を示しました。


一次世界大戦では大きな飛躍を見たのですが、好況の波に乗って粗悪品が出回り、我が国綿織物の声価を傷つけることになったので、政府は大正8年8月、製品の検査を励行することになり、輸出綿織物取締規則を公布し、輸出綿織物の強制検査を実施しました。この検査実施のために設立されたのが、日本輸出綿織物同業組合連合会(綿同連)であり、現在の日本綿スフ織物工業連合会の前身です。

 

不況の波にさらされつつも綿織物業は企業意欲旺盛にして常に輸出産業の先端を進み、生糸と共に我が国輸出の双璧を構成してきましたが、昭和12年、日支事変に突入するに至り、原料入手の困難から生産も減り、輸出も昭和12年の22億㎡(5億7千万円)を最高に次第に減少し、更に平和産業の名のもとに企業整備が行われたため、織機台数も昭和16年の39万3千台を最高に第二次大戦終了時には13万6千台に減少しました。


後は連合軍に管理されることになりましたが、その政策がはっきりしてくると、業界の首脳は終戦後の混乱をいち早く収拾し生産を軌道に乗せるように努力するとともに、自らの工場や機械を補修して操業を軌道に乗せ、国民の飢餓を救うために外貨を獲得し、壊滅した経済復興と近代化の先導的役割を果たしてきました。昭和25年各種の統制が撤廃されるや、企業は競って設備の新増設など事業の拡大を図りました。また昭和25年6月には、朝鮮動乱が勃発し特需景気が起こり繊維市況が活発となり、織物相場が暴騰したことによって設備の増設に一層拍車をかける結果となりました。しかし、朝鮮動乱の終結とともに景気の後退と輸出不振がおとずれ、業界は急激な不況におそわれました。


和27年には綿スフ織物業者と絹人絹織物業者は、業界安定のための法律の制定を要望した結果、8月に「特定中小企業の安定に関する臨時措置に関する法律」(28年8 月中小企業安定法と改称)が公布、施行され、各産地に調整組合が結成されました。同年12月に知多組合が発起人となり、日本綿スフ織物調整組合連合会が設立されました。同連合会は総合調整計画を策定して事業を実施してきましたが、実効をあげることが困難であったため、さらに効果をあげることを目的とし、昭和29年11月第29条命令の発動を要請し、12月アウトサイダーを含む織機の登録と新増設の禁止命令が出されました。これが基礎となって昭和33年には「中小企業団体の組織に関する法律」(団体法)が制定され、中小企業安定法は廃止されましたが、設備規制関係は同法にも引き継がれ、各調整組合も工業組合に改組されました。


和30年4 月末の綿糸布在庫は50万梱に達し、不況は深刻となり、織布専業者のうちに倒産するものが続出してきました。一方、紡績業者は操業短縮を実施し、紡績の賃織量も激減することとなりました。糸商も糸の販売をしぶり、原糸の出回りが極端に悪化してきました。これがため、各産地は3割の一率操短を決め、政府に対し緊急対策を要望しました。この結果、政府は昭和30年8月「繊維産業総合対策審議会」を設置し、繊維産業の総合対策を諮問しました。同審議会は、昭和 35年の需要数量に対する所要織機を検討し、過剰織機の処理を行うことを決定しました。また、政府は昭和31年2月「繊維工業設備臨時措置法案」を国会に提出しました。この法案は、繊維産業総合対策審議会の答申に基づき、過剰設備の処理等の対策を決めたものです。

この結果、綿スフ織物業者は昭和31年12月通産大臣から過剰織機の処理に関する共同行為の指示を受け、綿スフ工連はこの指示に基づき設備処理規程を定め、アウトサイダーを含めて昭和31年度から4カ年計画で約5万台の設備を買上げ破棄しました。また、同法によりその後各種の精紡機、織物幅出機ならびに化合繊の紡糸機についても登録制が実施されました。


業政策の重化学工業化の推進によって、繊維加工業は次第に人手不足の深刻化、中進国の繊維自給度の向上に伴って構造変化が起こってきたので、政府は繊維工業の経済的諸条件の著しい変化に鑑み、特定繊維工業の構造改善を図るため、特定繊維工業(各種紡績、綿スフ織物、合成繊維織物、絹人繊織物)について設備の近代化、生産または経営の規模の適正化および過剰設備の処理に関する計画の樹立等の措置を講ずるために「特定繊維工業構造改善臨時措置法」を昭和42年に制定しました。これによって綿スフ工連傘下30産地が、産地主導型の構造改善を実施し、設備の近代化、商品開発、取引改善等に相当の効果をおさめました。同法により構革実施組合は出資組合に移行し、構造改善工業組合に改称して現在に至っています。


和46年には対米繊維輸出規制に伴い、政府による設備買上げ、緊急融資などの措置が行われました。その後、石油ショックに端を発した需要減退に加え、中進国の急速な追上げ、円相場の急激かつ大幅な乱高下などの影響をうけ、深刻な不況に見舞われました。特定繊維工業構造改善臨時措置法は、昭和49年に繊維工業構造改善臨時措置法に改められ5年間延長され、知識集約化構造改善をめざすことになり、昭和54 年には再延長されました。業界はこの延長を機会に法の改正と運用の緩和を要望し、産地一括型による構造改善が可能となったので、綿スフ織物業界では8産地が同法による構造改善事業を実施しました。また当業界は業界安定のため、中小企業事業団の設備共同廃棄資金を活用し、設備共同廃棄事業を52年度から55 年度までの4カ年にわたって実施し、約56千台の織機を廃棄しました。昭和52年度から55年度までの4カ年で、約56千台を、昭和60年度において約20.9千台の織機を廃棄し、過剰設備の処理をいたしました。

なお、設備共同廃棄事業については、昭和61年度に実施主体が綿工連から各産地組合に移り、昭和61.62年度の2カ年間で約31千台の織機を廃棄しました。こうした設備処理を行ってきた効果もあって、織機台数は平成11年3月末時点で約83千台とピーク時(447千台)に比べておよそ5分の1強に減少してきております。


施策及び振興事業を行っていく上でもまた、過剰設備、過剰生産を未然に防いでいく観点からも、設備数(織機台数)を把握していくことが必要不可欠であったため、昭和29年から平成5年までの約40年にわたって設備登録制を実施いたしました。

代の移り変わりと共に業界も大きく変化し、綿スフ織物業界を始とした繊維産業に対する国の政策も大きな転換期を迎えることとなります。その中で最も顕著に、画期的に変化したのが第5次(平成元年6月~平成6年6月)の繊維工業構造改善臨時措置法であります。平成元年の法改正でそれまでの産地一括型の構造改善事業から、実需対応型供給体制へ移行し、LPU(リンケージ・プロダクション・ユニット)のグループを結成し、このグループ構成員のそれぞれの特性を伸ばし、グループ全体の商品企画力、情報収集力、クイック・レスポンス(QR)力の向上を実現し、高級化、多品種・少量・短サイクル化してきている市場への対応を図ろうとするものであります。さらに、情報、人材、技術等の経営資源が蓄積された産地組合が実施する構造改善円滑化事業も併せて行うことにより、繊維業界の構造改善を図っていこうという法律の内容でありました。


維法の第6次(平成6年6月~平成11年6月)においては、法律名も繊維産業構造改善臨時法と変更になり、LPUの弾力化による構造改善事業の一層の推進を図り、情報化促進によるマーケット・イン型の産業構造を構築し、併せて開発促進によるクリエーション型産業構造を構築していくことが目標とされました。 繊維産業構造改善臨時措置法につきましては、平成10年12月に発表された新繊維ビジョンにおいて、法律の更なる延長はされないとの提言を受け、平成11年6月末日を持って終了いたしました。当業界においては、平成10年度までに16組合において構造改善円滑化事業が実施され、32百社が参加いたしました。また、個別グループでは、三河、遠州、播州大阪地区のグループが大臣承認を受け、研究開発型構造改善事業を実施しました。


在、当業界における最大の問題は、中国を始とする海外からの織物の輸入であります。綿工連は平成7年2月と平成8年7月の2度にわたり、綿製品ポプリン・ブロードの繊維セーフガード措置(TSG)の発動要請を、日本紡績協会と連名で通産大臣に提出しました。しかし、結果は2度ともTSGの発動は見送られることとなりましたが、平成9年1月から中国の対日輸出における自主管理措置が強化されることになり、日本においても輸入通関時に中国からの正当な輸入品か否かを確認する新しい規則が実施されることとなりました。中国を始めとする海外からの輸入動向については、常に注意をし、チェックを続けております。

 

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